a short story with arflex
何にも替えのきかない幸せは、
何ということのない暮らしの中に。
緑豊かな郊外の家に越してきた
ふたりの日常の風景を切り取った、
ショートストーリーをお楽しみください。
AM8:00
窓の外から小さくきこえる、
山鳥のさえずり。
やわらかな風、葉のさざめき。
わたしたちが東京で暮らしていたころは
想像もつかなかった、穏やかな朝の調べ。
ゆうべは久しぶりに映画を観ながら
夜更かししてしまったせいか、
なかなかベッドから起き上がれない。
早起きの夫は、もう朝の散歩に
出かけたみたいだ。
ゆっくりと深呼吸して、
ふたたび目を閉じる。
たまには、自分を甘やかす朝もいい。
AM10:00
ラジオをつけ、
ふたりで遅い朝食をとりながら、
今日の予定をなんとなく話す。
近くのマーケットで買ってきた葉野菜の、
弾けるようなみずみずしさに目が覚める。
“日中は晴れて、全国的におだやかな
陽気となるでしょう“
天気予報が、うれしい春の予感を告げる。
ひとまず、シーツを洗うことだけは決めた。
あとはもう一杯コーヒーを
飲んでから考えよう。
PM1:00
結局、今日は家から
一歩も出ないと決め込んで、
まだ新しい革の匂いがする
ラウンジチェアに身体を沈める。
広い家に引っ越したら
買うと決めていた自分専用の読書チェア。
文字を映像に変換しながら、
小説の世界をぐるぐると歩き回る。
幼い頃から変わらない、この感覚が好きだ。
アームチェア・トラベラーとは、
ある意味わたしのことだと思う。
ページをめくるたび、
心がだんだんと軽くなっていくのを感じる。
PM3:00
ドアの開く音がして、目が覚めた。
いつの間にかソファで眠っていたみたいだ。
頭の中が、ふわふわとした高揚感に包まれている。
覚えていないけれど、
とても不思議で幸せな夢だったような。
買い物に出ていた夫が近くのパティスリーで
わたしの好物を買ってきてくれた。
新鮮な卵の味がするバウムクーヘン。
熱い紅茶とともに、
夢の余韻にぼうっと浸る
わたしのところへ運んできた。
並んで座り、しみじみと味わう。
「引っ越してきて、よかったかも」
そうつぶやくと、案外単純だよね、と笑われた。
PM8:00
日が落ちると、ここはまだ少し肌寒い。
夫が慣れた手つきで暖炉に火を入れると、
部屋のすみずみまであたたかさが満ちていく。
揺れる炎を眺めながらふと、
ガラスのテーブルを選んでよかった、と思う。
たっぷりとエネルギーチャージをした
土曜日の夕食後は、
あれもこれもとやりたいことが頭に浮かぶ。
冷蔵庫に残っているフルーツトマトで、
夜な夜なジャムでも煮てみようか。
明日は湖へドライブに行くから、
近くの美術館も調べておきたい。
そういえば、春服の荷解きも
まだ途中だったっけ。
ぱちぱちと小気味よい音が、
静かな夜に響いている。